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タクシン元首相とタクシン大王~タイの薀蓄~

大規模デモの話題で、日本でも有名人になってしまった、タイのタクシン元首相ですが、少しタイに詳しくなった方なら、一度は次のような疑問をお持ちになったことがあるのではないでしょうか。
トンブリー王朝(現王朝の前の15年間だけの王朝)を築いたタクシン大王の子孫なの?
MPGバンコクセンターに近いBTSシーロム線のサパーン・タクシン(タクシン橋)駅との関係は??

実は、タクシン大王とタクシン元首相の「タクシン」は、タイ語では文字も発音も違う、全く別の名前です。
カタカナで書くと一緒になってしまいますが、首相のタクシンは“タクスィン”、大王と橋のタクシンはどちらかというと“ダークスィン”という発音です。
なお、タイでは姓ではなく名前で呼ばれますので、タクシン元首相という呼び方は、日本だったら純一郎元首相と呼ぶのと一緒です。

タクシン元首相の実家は、有名なチナワット(シナワトラ)・タイシルクの創業家。
略歴はニュースクリップ紙によると次のようになっています。

【タクシン・チナワット】
 1949年、北部チェンマイ生まれの客家系華人。中国名は丘達新。警察士官学校を首席で卒業後、米国に国費留学し、イースタン・ケンタッキー大学で刑法修士号、サムヒューストン州立大学で刑事司法学博士号を取得。帰国後、警察に勤務するかたわら、官公庁へのコンピュータ・リース、不動産開発などを手がけ、87年に警察中佐で退職、短期間で携帯電話サービス最大手AIS、通信衛星のシン・サテライトなどからなる通信最大手シン・グループを育て上げた。
 95年に非議員で入閣し外相。パランタム党党首、副首相などを務めた後、98年に愛国党を創設。地方、貧困層へのバラマキ政策を掲げ01年の総選挙で大勝し首相、05年2月の総選挙も圧勝し、首相に再選された。同年、原油高によるインフレ、国営電力会社の民営化、国立学校の地方移管などで支持率を下げたほか、旧友のタイ字経済紙プージャッカーン創業者、ソンティ・リムトーンクン氏が首相辞任要求運動を開始。首相一族は今年1月、首相が創業した通信最大手シンの49.6%を733億バーツでテマセクに売却したが、タイ史上最大の企業売買だったにもかかわらず、タイ証券取引所(SET)を通じた個人取引の形を取ったため、所得税の課税を免れ、政権批判が一気に高まった。首相は2月に下院を解散、4月の総選挙で与党が投票数の6割近くを得たが、反首相派を押さえ込むことが出来なかった。
 実家は北部の中流クラスの財閥。いとこのチャイヤシット・チナワット氏は前国軍最高司令官、ウタイ氏は元国防省副次官、妹のヤオワパー・ウォンサワット氏は下院議員で愛国党幹部、ヤオワパー氏の夫のソムチャイ・ウォンサワット氏は労働省次官、ポジャマン首相夫人の兄のプリアオパン・ダーマーポン氏は警察副長官。

一方、タクシン大王の略歴は、Wikipediaによると次のようになっています。
文中では“タークシン”となっていますが、“ターク県”のタークも、どちらかと言うと正しい発音は“ダーク”になります。

【タクシン大王】
 中国名は鄭昭。
 潮州系中国人の子で、父親は賭博場で税徴収をしていたと言われる。プラヤー・チャックリー(ラーマ1世とは別の人)という官吏の元に養子に出され「宝(シン、潮州語)」と名づけられる。5歳の時、寺に預けられ、13歳まで勉学に励んだ。その後アユタヤー王朝に仕官し、宮内の外国人の学者達に積極的に教えを請うたという。21歳でタイの伝統に則り、出家。24歳で再び還俗し、小姓となった。その後、ターク県の監察官をしていたが、任務中にターク県知事が死んだのでそのままターク県知事となった。このとき付けられたターク県知事の称号に本名の「シン」が付けられ彼の通用名「タークシン」となった。
 アユタヤーにビルマ軍が侵入したとき、タークシンは新たな知事職に就くためカンペーンペット県に赴こうとしていたが、急遽防衛に加わった。しかし、アユタヤー王、エーカタット王が大砲の音に鼓膜が破れるのを恐れて「大砲は朕の許可を得てから撃て」と言ったにも関わらず、タークシンは無断で撃ったため罪に問われ、執行猶予にはなったものの弱々しい王に嫌気がさしてラヨーンに出奔した。タークシンはラヨーンで兵を挙げると、反対勢力のチャンタブリー県を制圧した後、潮州系の華人をかき集めてチャオプラヤー川を遡りアユタヤーに向かった。しかしアユタヤーはすでに廃墟になっていたため、再び下流に下り、1767年(タイ仏歴2310年、トンブリーに王朝を建てた。これがトンブリー王朝である。
 タークシンは文武両道の王で、反対勢力のピサヌローク県知事、ナコーンシータンマラート県知事、ピマーイ長、プラ・パーンなどがいたが次々に踏破、北部、南部も平定し、外国はカンボジア、ラオスをも次々に掌握した。ここで主要な司令官として、活躍したのがチャオプラヤー・チャックリー(後のラーマ1世)である。一方で、タークシンはアユタヤー王朝末期に散逸した文献の収集にも力を入れ、再編集した。タークシンの編纂したラーマキエンは今でも、数あるラーマキエン本の中でもよいものとされる。また、三島由紀夫の小説でも有名な暁の寺を建て仏教保護にも力を入れた。
 しかし、タークシンは自分が中国系の血を引いていることを忌み嫌い、アユタヤー王朝の血を引いていないことに強いコンプレックスを抱いていた。それによって晩年は精神錯乱をきたしたとされる。例えばある日タークシンは突如「朕は阿羅漢の境地に達した」と言いだし、僧侶に自分を礼拝するよう命じたことがあった。タイの仏教では民間人が阿羅漢に達しても、僧がその人に礼拝することは罪とされるので数名の高僧が礼拝を断ったが、断った僧は捕えられて僧籍を剥奪された上、鞭打ちの刑に処された。このときの僧の慟哭はトンブリー中に響きわったったと言われている。この事件は国民に衝撃を与え、各地の勢力が再び反抗の兆しを見せ始めた。また鉱山の税務官が職権を乱用したことも反乱の原因となった。タークシン王は家来のプラヤー・サンに反乱を鎮圧するように命じたが、プラヤー・サンは逆に反乱者を集めトンブリーに攻め入り、王を強制的に出家させて自らは摂政の位に就いた。王位もねらっていたが、そのときカンボジア遠征に行っていた、チャオプラヤー・マハーカサット・スック(上の段落のチャオプラヤー・チャックリー、もしくはラーマ1世)がトンブリーに戻ってきた。民衆はチャオプラヤー・マハーカサット・スックにタークシンの処刑を求めた。チャオプラヤー・マハーカサット・スックはタークシン処刑後の1782年(タイ仏歴2325年)王位に就きチャックリー王朝を創設した。

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